〈歴史〉と〈記憶〉をめぐって
「ベルリンの壁」崩壊後のドイツ
講師:米沢 薫さん(東洋大学講師)
1989年、「ベルリンの壁」が崩壊した。翌90年10月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)はドイツ連邦共和国(西ドイツ)に編入され、戦後冷戦体制の象徴でもあった「二つのドイツ」は消滅した。
2005年、解体された「壁」の広大な跡地に、「ヨーロッパの虐殺されたユダヤ人の記念碑」が建設された。しかし、この記念碑は激しく長く続いた論争を伴っていた。なぜユダヤ人なのか、記憶されるべき犠牲者とは誰か、記念されるべきは何か─。この論争は、ナチス・ドイツの過去をあらためて問うと同時に、戦後の二つのドイツの〈歴史〉のせめぎあいを、さらに「壁」崩壊後のドイツのありかたを問うものとなった。
講師は、1991年留学生としてベルリンに入り、長く東ドイツという一つの体制が崩壊する過程に立ち会った。この講座は、講師自身の体験をふまえ、長期にわたった「記念碑論争」を通じて浮かび上がる〈歴史〉と〈記憶〉の問題を考えていく。(講師プロフィールはこちら)
会場 柴中会公会堂 (JR中央線 立川駅南口 徒歩4分 モノレール立川南駅 徒歩2分) 地図参照
定員 30名 定員一杯になり次第締め切ります。
受講料 1回 1000円 会員・学生・経済的困窮者1回 800円(全回前納者は 3500円・会員 3000円)
お問合せ/お申込み シビル1階事務室(平日13〜19時 メール申し込みも可)
Tal:042-524-9014 Fax:042-595-9431 Mail:civiltachikawa@yahoo.co.jp
●オススメ 郵便振替口座で前納申込 口座番号「00170-0-481827 シビル運営委員会」
郵便局にある振替用紙に、どの回を申し込むか、氏名・住所・電話・メールアドレス等を明記してください。
◆コロナ事態の推移によって延期・中止する場合があり、その都度1週間前にはお知らせする予定です。
講師プロフィール:米沢 薫(よねざわ・かおる)さん
立教大学文学部大学院組織神学修士課程修了。1991年、ベルリン・フンボルト大学留学。ドイツ学術振興会、フンボルト大学日本文化研究センター研究員を歴任し、2012年に帰国。著書『記念碑論争』(社会評論社/2009)、『ドイツにおける国家と追悼』(山本浄邦編著『国家と追悼─「靖国神社か国立追悼施設か」を超えて』社会評論社/2010 所収)。現在、東洋大学講師。
一般社団法人 市民の学習・活動・交流センター
シビル
tel
042-524-9014 fax
042-595-9431 立川市柴崎町3-10-4
【各回の概要】
(全回 会場:柴中会公会堂 時間:13:30〜16:30)
第1回 2020年9月20日(日)
ドイツ統一後あらわになった「二つの我々」
−個人的体験から−
「ドイツ統一」が、1990年代の東ドイツに何をもたらしたのか。日常生活の中で可視的に進行する「東ドイツの消滅」のプロセスを講師は東ベルリンでいわば定点観測してきた。それは例えば東ドイツの地名や通りの名の改称、「記念碑」の解体、撤去、教育機関の「再編成」、教員の大量解雇等々である。何が残され、何が解体され、何が変えられたのか。それは、異なる「集合記憶」をめぐる戦いの結果といえよう。当時、講師が体験した具体例を挙げつつ、講座全体のテーマである集合記憶について考える。
|
国立追悼施設(イノエ・ヴァッヘ) |
第2回 2020年10月18日(日)
「国立追悼施設(イノエ・ヴァッヘ)」の失敗
(1993年)
1993年、「戦争と暴力支配の犠牲者のためのドイツ国立中央記念館」(イノエ・ヴァッヘ 左写真)が設立された。これは同じ場所にあった東ドイツの戦没者国立追悼施設「ファシズムと軍国主義の犠牲者のための記念館(イノエ・ヴァッヘ)」を改修し、その意味に大きな変更を加えたものであった。
これは激しい論争を引き起こした。この二つの「国立追悼施設」を比較し、誰が、誰による「犠牲者」なのか、そもそも「犠牲者」とは誰なのか、ということを考えたい。
|
虐殺されたユダヤ人のための記念碑 |
第3回 2020年11月22日(日)
「虐殺されたユダヤ人の記念碑」論争
(2005年)
2005年、ドイツ敗戦60周年の日に、首都ベルリンの壁の跡に建設された巨大な「虐殺されたユダヤ人のための記念碑」の除幕式が行われた。これをめぐる「記念碑論争」は、呼びかけから18年という長さ、論点の広がりと多様性において戦後ドイツで展開された論争の中で際立っている。
この論争がなぜそれほど激しく「統一」後のドイツで行われたのか、また何がそれを可能にし、何がそれを必要としたのか─ドイツ統一の問題と関連させつつ考えたい。
|
長崎原爆落下中心碑 |
第4回 2020年12月20日(日)
そして「日本」−「象徴」「儀礼」「記念」をめぐる問題
ドイツの論争から、日本の我々が学ぶべきことは何か。参考にすることができるのは何だろう?日本の具体例をとりあげる。
そもそも「象徴」「儀礼」「記念」とは何だろう?「我々」にとって、「国家」にとって、また例えば「犠牲者」にとって、考察を深めたい。